部員ブログ「準備」 松見勇輔
試合の日の朝、僕を呼び覚ますのは決まって冷気だった。それは、肌に対する直接的な作用を施したというよりも神経が読み取る情報の間接的順応という方がしっくりくるのかもしれない。そういう意味では身体というものはつくづく鈍感であると感じざるを得ない。外界と心とを分つ皮膚ないしは、その他知覚器官はガラスのフィルターのように機能し、外からのあらゆる情報を屈折して脳に伝達してしまうからだ。そして僕はそのフィルター越しに感じ取った“何か”を解釈するのに必要な感性がいささか物足りないらしい。だから、試合の日の朝は決まって、体の芯から文字通り“ブルっ”と奮い立つのだ。
あるいは、早起きに対する動物的本能が働いたのかもしれない。それは元来、人類が振り子のように死と生の狭間を繊細に往来していた頃の防衛本能、「生は腹に宿り、死は背と共に」とでも言えばいいのだろうか、睡眠時の無防備な状態からの一刻も早い解放、命の再確認、故に背筋に一抹の不安が通るのではないだろうか。今朝も、柄にも無く日の登らないうちに目が覚めてしまったからか、どうにもソワソワした。
鳥の囀りが窓の外から聞こえる。彼らはいつも早起きだが、朝から用事でもあるのだろうか。いや、彼らの仕事はまさにこの瞬間にあるに違いない。静を動へと導く細やかなるホイッスル。そっちがその気なら僕は潔くこの鈍ったるい体を起こすことができる。なんせ今日大事な試合だ。準備を怠ってはならない。すでに笛は鳴ったのだ。
シャワーを浴び、ポロシャツに着替える。いつもは食パンに目玉焼きとベーコンを挟んで食べるのだが、試合当日には言語道断である。例えそれがエネルギーとして十分な役割を果たそうが、消化の悪いものは口にすべきではない。そういう意味では山盛りのチーズとピクルスをマーガリンをたっぷり塗ったパンズで挟んだハンバーガーに齧り付くのと何ら変わりはない。用は、求めるものが違うということだ。おにぎりに何も期待していないし、だからといって必要でない訳ではない。お前にはその簡素な見た目と同様に、できる範囲で役割を果たせば良いのだから。
試合開始時刻の丁度3時間前であることを確認すると同時に、昨日の夜にセットしておいた炊飯器が炊き上がりを報告し、僕はそのゴツゴツとした手で小動物を扱うように優しくご飯を握る。母がいつも作ってくれたおにぎりはぎゅっと引き締まっていたが、実を言えば、僕はご飯の粒の隙間を空気が縫うような、ふわふわした感じが好きだった。でも、それを母に言った事はない。だって母がそうしたいのだからしょうがないじゃないか。
おにぎりを片手に頬張りながら朝のニュース番組とスマホのネットニュースを交互に見る。ニュース番組では僕の興味のないプロ野球解説が行われていた。今年もホークスは強いから優勝だ、あいつは調子が悪いだの、専門家があれよこれよと討論をしている。競技は違えど、今から試合をする身からすると、まさに自分に向かって言われているような気がする。僕は勝つ為に試合をするのだ。その為に最高の準備をしてきたのだ。外部の批評家にとやかく言われる筋合いはない。彼らが何を言おうと自分にできることは変わらないのだから。
スパイクを磨き、ユニフォームと共に鞄に詰め込む。一式揃っているか何度も確認、その度に安堵をし、起きてもなお幾度も繰り返すアラーム「チュニジアの夜」のハットとシンバルの激しい連打に呼応し焦燥に駆られる。この音は闘争心を掻き立てるのではなく、秩序を掻き乱し、僕をカオスの中へ誘う。これから起こりうることに、安定などいらない。確固たる鈍感は混沌においても、その無頓着な姿勢を崩すことはないのだ。
7時、試合開始の丁度2時間前、僕は家を出る。今日の会場は近くの海浜公園に付属するグラウンドだ。自転車で20分くらいだろうから集合時間の40分前には到着できるだろう。今朝の風は強く、自転車の首を大きく右往左往させる。季節外れの寒波が風に運ばれ肌に突き刺さる。しかし、朝のニュースで小耳に挟んだ天気予報のおかげで、僕はいつもの上下ピステの上に更に一枚ジャケットを羽織り、寒さの対策は万全であるし、自転車が風に押し返されようが、集合時間までにはまだまだ時間がある。くるなら来い、風よ。僕は準備を怠らないのだから、お前が邪魔をしようがなんて事はない。今日の日の為に鍛え抜かれた筋肉は重厚な層となり凍を鈍らせ、収縮し、汗を伴って発散する。どれだけ息を荒げようが肩を上下させるような事はしないし、ペダルが重くなり、まるで脚で餅をつくような感覚に陥ろうが、僕の脚は安らぎを知らず、ただ一点を目指すのだ。
ふと、忘れ物があるかどうか不安になり、自転車を止めて鞄の中を確認する。大丈夫、ある。ユニフォーム、スパイク、レガース、エネルギー補給のためのゼリーとバナナ、そしてオレンジジュース。不足はない。いや、あるはずがない。「セッション」で主人公のマイルズ・テラーは大事なコンペティションにドラムスティックを忘れ、慌てて取りに帰るが、焦りのあまり交通事故に遭い、大怪我を負ってしまう。それでもなおドラムを叩こうとする姿は狂気と憐れみを感じさせたが、僕にこのようなハプニングが起こる確率は微塵もないし、
象徴的な出来事が起こりうるというのなら、それは勝利という形のみでしか現れない。それだけ、僕は今日の為に準備をしてきたのだ。
「チュニジアの夜」が鳴った。またアラームかと思い、携帯を見るとアラームではなく、チームメイトからの着信だった。自転車を脇に止め、サドルに跨りながら携帯を耳に当てる。
携帯のパネルが無機質な冷たさを耳に伝える。風が強いため、はっきりと聞こえずもう一度言うようにか促す。
「悪い、急にすまん! 今どこ? まだ家おる?」
焦っているような口調に、言いたいことが大体予想できた。
「いや、もう家でて……どうしたん?」
とりあえず聞いてみるが、答えは決まっていつも同じなのだ。
「俺も家出て、今駅前まで来たんやけど。さっきスパイク忘れたの気づいて……今から取りに帰ったら間に合わんし……悪いんやけど、今日貸してくれへん?確かサイズ一緒やったよな?」
「……分かった。お前、忘れすぎな」
今日は試合だ。やれる事はやった。
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